国史跡 崇廣堂 伊賀上野
国史跡 崇廣堂 伊賀上野
俳句は美術の物質としての実在性がもたらすイメージの強靭さに憧れ、美術は俳句の「場」や「座」に感応した即興性、流動性などに近代主義的な「個」からの解放を見つけます。その両者が互いの固定的表現領域を脱して出会うとき、そこには瞠目すべき実験のフィールドが出現するに違いない。それがこの展覧会の企画意図です。
今回の展覧会は、伊賀上野において藩校として建てられた旧崇廣堂を会場としました。伊賀上野は俳諧の革新者である松尾芭蕉の生誕の地でもあります。土地、場所との緊密な関係に置かれた数々の作品や実施されたプロジェクトは、観客の皆様を心地よい思索にいざない、この場においてこそ顕現する唯一無二の鑑賞体験を提供できたものと確信しています。
俳句は美術の物質としての実在性がもたらすイメージの強靭さに憧れ、美術は俳句の「場」や「座」に感応した即興性、流動性などに近代主義的な「個」からの解放を見つけます。その両者が互いの固定的表現領域を脱して出会うとき、そこには瞠目すべき実験のフィールドが出現するに違いない。それがこの展覧会の企画意図です。
今回の展覧会は、伊賀上野において藩校として建てられた旧崇廣堂を会場としました。伊賀上野は俳諧の革新者である松尾芭蕉の生誕の地でもあります。土地、場所との緊密な関係に置かれた数々の作品や実施されたプロジェクトは、観客の皆様を心地よい思索にいざない、この場においてこそ顕現する唯一無二の鑑賞体験を提供できたものと確信しています。
芭蕉小品・・・松尾芭蕉へのオマージュ・・・
芭蕉小品・・・松尾芭蕉へのオマージュ・・・
「古池や蛙飛びこむ水の音」 松尾芭蕉
「直に付けんは手づつならん。ただ面影にて付くべし」
中期以降の芭蕉の句は古典の直接の引用を避け、「面影」に留めるようになったという。
単なる知識の披歴ではなく、古典を踏まえながらもずらすことによって間をつくる。
あからさまを避け、曖昧さの中に読み手の想像力を自由にするのだ。
今回、薄い膜の間に、和歌の源流といわれる神話の国生みの歌から、
古池の句へと繋がる詩歌の系譜の一端を閉じた。
それは重ねた層の間に淡く揺れ、しかし確かに存在する。
詩歌は、言葉をもって言葉を超えていこうとする行為である。
裏を返せば言葉を表層的なものとして、その向こうに深層があると捉えていることになる。
言葉に依りながら言葉を疑う。
大きな矛盾を抱えながら言葉の向こうに手を伸ばし続けるのだ。
美術も、何らかの事物を表出しながら、それ自体が本位ではない。
かたちをもって、かたちの向こうへ手を伸ばしている。
膜一枚隔てた向こうの釉に触れることは叶わない。ぼんやりとその色が映るだけだ。
出典:「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」 長谷川櫂
「影の日本史に迫る 西行から芭蕉へ」 磯田道史・嵐山光三郎
「古池や蛙飛びこむ水の音」 松尾芭蕉
「直に付けんは手づつならん。ただ面影にて付くべし」
中期以降の芭蕉の句は古典の直接の引用を避け、「面影」に留めるようになったという。単なる知識の披歴ではなく、古典を踏まえながらもずらすことによって間をつくる。あからさまを避け、曖昧さの中に読み手の想像力を自由にするのだ。
今回、薄い膜の間に、和歌の源流といわれる神話の国生みの歌から、古池の句へと繋がる詩歌の系譜の一端を閉じた。それは重ねた層の間に淡く揺れ、しかし確かに存在する。
詩歌は、言葉をもって言葉を超えていこうとする行為である。裏を返せば言葉を表層的なものとして、その向こうに深層があるととらえていることになる。
言葉に依りながら言葉を疑う。
大きな矛盾を抱えながら言葉の向こうに手を伸ばし続けるのだ。
美術も、何らかの事物を表出しながら、それ自体が本位ではない。
かたちをもって、かたちの向こうへ手を伸ばしている。
膜一枚隔てた向こうの釉に触れることは叶わない。ぼんやりとその色が映るだけだ。
出典:「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」 長谷川櫂
「影の日本史に迫る 西行から芭蕉へ」 磯田道史・嵐山光三郎
小倉喜朗(俳人)×山下裕美子(美術家)
小倉喜朗(俳人)×山下裕美子(美術家)
「羊水の中の瞬き花曇り」
「いわし雲意外に広い箱の中」
「言い訳にポっと吐き出す海月かな」
「ひとりずつスプーンになっていく二月」
・・・・小倉喜郎句集「あおだもの木」より
句集は言葉からなる、小さな時間の集積だ。
俳人によって掬い取られた情景は言葉(音や文字)としてかたちをもつ。
その言葉を磁器の頁に焼き付け、微細な粒に砕いていく。
こととものは転換を繰り返し、絶えず循環の最中にある。
「羊水の中の瞬き花曇り」
「いわし雲意外に広い箱の中」
「言い訳にポっと吐き出す海月かな」
「ひとりずつスプーンになっていく二月」
・・・・小倉喜郎句集「あおだもの木」より
句集は言葉からなる、小さな時間の集積だ。
俳人によって掬い取られた情景は言葉(音や文字)としてかたちをもつ。
その言葉を磁器の頁に焼き付け、微細な粒に砕いていく。
こととものは転換を繰り返し、絶えず循環の最中にある。
「無重力の実験室の菊の花」
小倉さんの句は不可解だ。
わからないと、自意識は不安定に揺れる。
しかしそのゆらぎの中で感覚は自由に浮遊しはじめる。
「無重力の実験室の菊の花」
小倉さんの句は不可解だ。
わからないと、自意識は不安定に揺れる。
しかしそのゆらぎの中で感覚は自由に浮遊しはじめる。
「遠雷やとっくに飯は炊けている」
180年前、ここで誰かが誰かに飯を炊いていた。
遠く、雷鳴が響いていたかもしれない。
「遠雷やとっくに飯は炊けている」
180年前、ここで誰かが誰かに飯を炊いていた。
遠く、雷鳴が響いていたかもしれない。
「兄さんを梱包してみる稲光」
「翡翠や兄さん紙となっている」
小倉さんの句は不可思議だ。
言葉と言葉は互いを裏切り、日常の先がぐにゃりと曲がる。
論理の罠をするりとかわし、知らぬ間に兄は紙に戻り、
紙は石に置き換わっている。
不可思議をそのままに再現する装置として。
「兄さんを梱包してみる稲光」
「翡翠や兄さん紙となっている」
小倉さんの句は不可思議だ。
言葉と言葉は互いを裏切り、日常の先がぐにゃりと曲がる。
論理の罠をするりとかわし、知らぬ間に兄は紙に戻り、
紙は石に置き換わっている。
不可思議をそのままに再現する装置として。
「深海にゆっくり届く箪笥かな」
あの日沈んだすべての日常に。
「深海にゆっくり届く箪笥かな」
あの日沈んだすべての日常に。